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格好のつかない「日常」に「はじまり」はあるか “キッズリターン” 今村雅樹 |
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この「キッズ・リターン」という映画は、人間の持つ隠しきれない「格好の悪さ」をとことん「格好悪く」描いたことによって、成功した作品といえる。 若いうちは失敗しても格好いいものであるとする、挫折さえも美しいとする映画がいわゆる青春映画として多いなかで、この作品は異彩を放つ。映画の主人公達は監督である北野武のもつ独特のかわいた文体によって切り取られ、距離をおいて描かれることによって、彼等のみせる傷は、生身の人間のそれよりも、直接的である。 主人公はマサルとシンジというふたりの落ちこぼれの高校生で、彼等の日常をいくつかのエピソードがパズルのようにくみあわさって物語は展開していく。 学校で他愛もないいたずらをしたり、外で弱そうな人間をカツアゲする、将来になんの展望もないかれら、落ちこぼれた人間にとって、学校はなにもしてはくれない、ただ時間をつぶすためだけの「箱」である。 やがてマサルはヤクザの世界で、シンジはボクシングの世界で成功の階段に足をかけた瞬間、踏み外してし、転落してしまう。彼等の「格好のわるさ」はふたりが格好もつかないうちに挫折しているところにある。 ドラマとしては、劇的な要素が矮小すぎるのである。かれらをつまずかせるまわりの人間も、ヤクザの親分にしろ先輩のボクサーにしろ、じつに小市民的な悪である。ふたりをとりまく世界は、なにをしても小さいのである。 その小さな世界が、この物語の全体を支配していて、なにかふっきれない閉塞感で満たされている。決して晴れることのない空や、灰色の延々と単調に続く町並がその象徴のようである。 ラスト、「まだはじまっちゃいねえよ」のこの台詞から、かれらにかれらのいう「はじまり」があると思うことは難しい。おそらく二人にとっての成功はありえないだろうという予感に満たされて物語はしめくくられる。 かれらを支配しているのは彼等自身ではなく、かれらをとりまく社会であり、彼等自身そのことに気付いていないことが悲劇的な予感を起こさせるのである。 物語のはじめと終りに、ふたりがグラウンドを自転車でまわるシーンがある。これはちょっと遠い昔を懐かしく思うシーンであると同時におなじことを繰り返し続けるだろうという暗い暗示でもあるかのようである。 |