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「風男」の事はかねてから聞いていた。彼は夜、それも満月のこうこうと照る時に、
一陣の風と共に子供をさらう。さらわれる子供は、事の前には誰とも知れない。
そしてまた、さらわれた子供は一人として帰ってこない。そういう評判だった。
初めて事の起きたのは、街道を西へ二里ほど行ったところにあるHという町である。
消えたのは女の子だった。夏の初めにしては蒸し暑い夜で、よそと同じ様に、この家
でも窓は開け放して寝ていた。女の子の父親は、夜半を過ぎても急な暑さに体が慣れ
なくて寝つかれずにいた。時計が十二時半をうった時、家の中を季節はずれの強風が
吹き抜けた。その拍子に蚊帳がはずれてしまったので、汗びっしょりで寝ていた母親
もついに起きた。二人は蚊帳を張り直して、きっと子供部屋でも同じ事だろうと思っ
て二階へ上がると、九歳になる娘は消えていた。彼らは近辺を捜してみたが見つから
ない。翌朝になっても帰ってこない。これは大変だと、近所の人たちにも頼んで町の
中を捜した。次の日には町民三十人と警官二十人からなる山狩り隊が組織された。二
週間して、何の発見もないまま山狩り隊は解散された。
それから一と月後、Hより近いAという町で、似た様な形で今度は男の子が失踪し
た。その子の家族も、夜中に強い風の音を聞いたと話した。その時になって例の女の
子の父親は、夜中ずっと起きていたから、誰も家から出たり手洗いに行ったりしてい
ないのは分かっていた、と語った。昔とは言え、神隠しを信じるほどでも、またそん
な田舎でもなかった。「風男」の名が人々の口に上るようになったのはそれから間も
なくの事である。その次の満月の夜、私の町とA町の間のC町でまた子供がいなくな
った時、「風男」の名は新聞にも載った。
私の家には当時、家族は会計士をしていた父しかいなかった。年の離れた二人の兄
は高等商業を出て、上は大阪、下はアメリカで働いていた。母は二年前に病で亡くなっ
たのだが、最近になって、父は子連れの若い女を家に引き込んだ。私は、女は父のい
ない所では連れ子ばかりをかわいがり、私には冷たいように感じていた。連れ子とは
寝床を一緒にされていたので、ある晩、寝る前に小突いてやった。すると五軒となり
まで目を覚ますような声で泣きわめいた。駆けつけた父も女もえらく私を叱った。父
も女も部屋へ帰り、連れ子が隣で寝息を立て始めてもまだ私は寝なかった。そうして
枕を涙でぬらしながら、「風男」を利用する事を思いついた。
私は満月の夜を待った。十二夜の月が出た夜から寝られなくなった。十三夜、十四
夜は雨だった。ついに満月の夜、私は学校へ行く時のかばんに着替えや晩飯の残りご
飯でつくったおにぎり、小遣いを貯めたわずかな金を入れて、草履と共に枕元に置い
た。昼に調べておいた、兄のいる大阪までの道のりと駅の名前を再び黙って暗唱した
が、金が足りるかどうかまでは考えなかった。連れ子が寝入った頃を見計らって唐紙
を開けると、低い山並みの上にちょうど乗っかるように、大きく赤い満月が出ていた。
月明かりに照らされて白っぽく見える道の、その向こうをじっと眺めていたら、やけ
に涼しい風がすいっと鼻先をかすめた。もう残暑も収まっていた頃なので、この涼し
い夜に窓を開け放して寝るというのも不自然かな、と今さらながら気づいた。それで
ぐずぐずしていると、
「お兄ちゃん、寒いよ、閉めて。」
連れ子が目を覚ましたのである。喉の奥でひっという声が出かかったが、辛うじて
飲み込んだ。「うるさい、黙ってろ。」押し殺した声で言い返して寝床に戻ろうとし
た。その時、向かい合った連れ子の顔が月明かりにぼんやり浮かんで、中に眼だけが
妙に光っているのが気味悪かった。涼しいにも関わらず、私の体は汗でびっしょりに
なった。
私がふたたび床に潜り込むと、連れ子はしばらくもぞもぞしていたが、じきに唐祇
を閉じに立った。「馬鹿、そのままでいいんだ。」起き上がりながら叱りつけるのと
ほとんど同時だった。びゅん、と強い風が部屋の中に吹き込んだ。その瞬間、敷居の
すぐそばに立った連れ子の足下につむじ風が立った。確かに風が見えた気がする。私
は金縛りにあったようになって、指一本動かなかった。連れ子は眼を大きく見開いた
まま、脚から腰、肩、頭と、風に飲まれながら、消えていった。消え去った後も、そ
の目は私を凝視している。ずいぶん経って、金縛りが解けてから、連れ子の眼だと思
っていたのがあの大きな赤い月だった事に気がついた。
「はあ、弟が浮かされてそんな話を…。」
わたしは病院の一病室の前で、一見六十前後くらいの男を前にしていた。彼はアメ
リカで働いているという父の次兄だそうで、ずっと以前に会った記憶がある。逆に言
えば日ごろはそんな疎遠な人なのだが、父が釣り船の事故で危篤であるとの知らせを
受けて駆けつけてくれたところなのだ。
「あれも、そんなに気に病む事もなかろうに…。」
「は?」初対面も同然の人にこんな口をきいて、しまったと思った。長く続いた看
病からの疲れで、どうも頭がすっきりしないのだ。非礼を詫びると優しい微笑みが返
ってきた。それから伯父は、空を見つめて語り出した。
「記憶をなくした人が、昔の記憶に戻ったり、昔の話を繰り返しするという事はご
存じでしょうが、その時に、心の奥にひっかかっている事の断片が、夢を見ている時
みたいに、勝手な連想で記憶が模造される事もよくあるんです。…義母はあれより二
つ年下の子供をつれて、家に来ました。私はちょうど渡航の寸前でしたから、父の事
務所で手伝いをしていました。義母はしんから善人でしたし、つれて来た子も素直な
いい子でした。義母が自分の子を依怙贔屓していたなんてとんでもない。むしろ、あ
れの方もよくなついていましたよ。ただ、義理の弟は、私がアメリカヘ発って間もな
く亡くなったと聞きました。スペイン風邪をこじらせたとか…。元が体の弱い子だっ
たようで。なのに、寒い時期に窓を開け放して寝ていたんです。弟はちょっと重い風
邪くらいで済んだんですが、それも、義母の看病があって助かったようなものですか
らね。しかし正直な気持ちからは、あいつとしては自分をかわいがってくれた母親の
代わりなんかあり得ないし、眼の前に見せつけられる実の母子の姿にやきもちも焼い
たでしょう。そういう感情があったからこそ、自分の責任のように思えたんでしょう
ね。今の話を聞くと、小さい頃のあいつの苦しい心のうちがよくわかります。子供の
心は敏感ですからね…。」伯父はハンカチを取り出して眼に当てた。「きっとあなた
がたに、その義理の弟の話をした事はないのでしょう?」
わたしは少し赤くなっていたかも知れない。「はい…。わたしの方からも、父の子
供時分の話をそんなに突っ込んで聞いて見た事はありませんでしたから…。」
そう言ったところで病室から医者と看護婦が出てきて、わたしに軽く一礼した。
「やあ、お父さんの経過、大分いいね。頭の傷も治りかけてきてるし、記憶の方も
順調に回復しているようです。」
「あ、はい、どうも、ありがとうございます。」
医者に父の容態と看護の注意点を手短に説明してもらってから、わたしと伯父は病
室に入った。頭に包帯をぐるぐる巻かれた父が口を動かしたので、その声が聞こえや
すいように、わたしは父の横たわった体の上にかがんだ。病床の父は、普段よりもず
いぶん老けて見えた。淡いグレーのスーツにウイングカラーのシャツという伯父の若
作りな服装が対照になっているせいかも知れない。そう思っていると、父の細い目の
中に光が動いた。
「お前か…、かあさんは…。」
「うん、姉さんたちと一緒に、ちょっと買い物に行ってる。それより、アメリカの
伯父さんだよ。わざわざ見舞いに来て下さった。」
伯父は心配そうに、大丈夫か、と声をかけた。しばらく見つめあっていたが、父の
目はうつろだった。記憶がそれほどよく戻っていないのかも知れない。伯父は父のす
ぐそばまで寄って、親しげに腕をさすった。そうして言った。「ちょっと、二人だけ
にしてもらえますか。積もる話もありますし、さっきの事もはなしたいので…」
ごゆっくり、と愛想を言ってわたしは部屋を出た。少し頭が痛くなっていたので、
ちょうど良くもあった。少しうつっとしたと思ったら、廊下の向こうの方に足音がし
て、母と姉が入院に必要な荷物を山のように抱えて戻ってきた。母はわたしの顔を見
ると父の経過を尋ね、悪くないと聞くとほっとした顔になった。そうして、あらあら
などと言いながら、ハンカチを出してわたしの胸元を拭いた.そのハンカチに、どこ
かで見たような気がしていたら、母の後ろから長身の七十すぎくらいの老人が顔をの
ぞかせた。
「おお、久しぶり。親父さん、釣り船に乗ってて事故に遭うたって?相手が医者の
セガレのヨットなんやてな。最近の医者は、ナニか?企画営業もするようになったん
か?」
「あ、これは…大阪の伯父さん。本当にお久しぶりです。変わりありませんね。お
元気そうで。今ちょうど、アメリカの伯父さんも来ていらっしゃいますよ。」
それを聞いて、伯父はいぶかしげな顔をした。「あいつんとこには、今日の昼に国
際電話かけてんけど。えらい早いな。どうやって来はったんやろ?」
「え?」言われて頭のもやがゆっくりと晴れていった。そうして気がついた。あの
伯父さんにはいつかどこかで会った事があると思っていたが、十五年くらい前、最後
にあった時の大阪の伯父さんに瓜二つだ。似ているのではなくて、正確に一緒だった
―髪型、服装から声まで、記憶のとおりだ。ぞっと、肌が粟立った。その瞬間、病室
に激しい風が吹き込む音がした。わたしはがくがくする体を無理に動かして部屋に飛
び込んだ。部屋は空だった。閉めてあったはずの窓は開け放たれ、その向こうに、大
きな赤い月。

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